1996年10月6日
ヴァイマン夫妻 ファンタジーについて
今日のプログラムはいろいろな作曲家が生んだ<ファンタジー>5曲です。
日本語では、<幻想曲>と訳されていますが、一般的に楽想のおもむくまま、形式にとらわれずに作曲された作品をそう呼んでいます。
内容を分類しますと、
1.即興的な作品
2.ロマン的な性格の作品
3.形式の自由なソナタ
4.オペラのポプリで自由に即興的に処理されている曲
5.厳正な対位法書法による16〜17世紀の器楽曲
…となります。
 今日演奏されるヴァイオリンとピアノのための3つの<ファンタジー>はそれぞれの作曲家が措いた絵の様なもので、その音の色や輝きや思いを楽しんで頂ければよいと思います。


シューマン (1810 ツヴィカウ 〜1856 エンデニヒ)
 シユーマンはショパンと同じ1810年に生まれ、19世紀前半にドイツで治産したロマン派の作曲家です。彼の時代は20世紀に対する準備期であったので、進歩的思想と保守的思想が激しく相争っていた時代でした。イギリスに始まった蓬莱革命が社会に大きな変化をもたらし、底知れぬ不安を引き起こした時代でもありました。
 社会不安は逆に平和を願う宗教的傾向も生んだのでした。19世紀のロマン主義音楽を基礎づけたのは何といっても個人主義と国民主義の両者でありました。個人主義は極端な個性尊重の形をとり、そこから名技主義、幻想性などの極めて強い傾向を生みました。また、国民主義は母国言吾の尊重というという形で歌曲、標還音楽、オペラ等の優れた作品を生みました。
 才能豊かであったシユーマンは、当時社会的に盛んに活尾していましたが、精神に異常をきたし、ライン川に身を投じ、2年後46才で病院で亡くなりました。彼の素晴らしい歌曲、ピアノ曲は当時を代表しています。彼のピアノ曲<ファンタジー>もまた名曲です。

 シェーンベルグ (1874 ウイーン 〜 1951 ロサンジェルス)
 現代音楽に於ける最大のユダヤ人作曲家です。。彼の作曲活動は19世紀末より始まり、新世紀の前半をおおっています。そして<無詞>の音楽を創始し、現代音楽の進路について決定的な方向を示したのです。<無調>とは例えば従来の長音階や短音階の全音と半音から出来ている音階を全部ばらばらにして12の半音階に分解してしまったのです。
 被は家計が豊かでない家庭で育ったので、音楽教育は充分受けておらず、ほとんど独学で多くのことを覚えぎした。12音階、これは本当に画期的な事で、調性からの開放であり、後のウエーンベルン、ベルク等すぐれた弟子を育てました。また、彼は画家としてもすぐれた才能を持っていました。ユダヤ人迫害のためヨーロッパからアメリカへ亡命し、アメリカで没しました。


 サラサーテ (1844 バンプローナ 〜 1908 ピアルリッツ)
彼はスペインのバイオリン演奏者であり、作曲家でありました。無数のヴイルトオーゾ達が名人芸演奏の黄金時代を築き上げた19世紀に於ける・:最も倭れたヴァイオリニストの一人でありました。幼時にフランスに渡り、パリ音楽院でヴイオッティの流れをくむアラールに師事し、ソルフエージュとヴァイオリンて第1位を受けました。披は作曲でも優秀賞を受けましたが、全ら素晴らしい演奏家として世界中に演奏旅行をし、その美しい音色、確実性、非凡なテクニックと外見の特異きで評判となりました。また、彼のために多くの作曲家達が、作曲をしました。彼自身はオペラの幻想曲を得意中の得意としたのでした。彼の使っていたストラデイヴアリウスはスペインの女王イザベラから与えられたものでした。
 モーツアルト (1756 ザルツブルグ 〜 1791 ウイーン)
 こんなに日本人に愛されている作曲家も少ないと思います。彼の素直な明るき、あふれ出る美しいメロディー、アンサンブルの見事さ、大司教宮廷の音楽家を父に持ち、子どもの頃からその才能を充分に発揮して育ちました。柿のナンネルと2人の神童ぶりは世間の評判でした。また、ウィーンのシエーンベルグ宮段での女帝マリア・テレジアや皇帝フランツー世のための御前演奏は語り草となっています。彼は努力型のベートーヴェンとは対照的に、自然に泉の様にあふれ出る音楽を採譜じた様な天才です。彼の数多い作品は、その短い36年の生涯に器楽曲、交響曲、オペラ、ミサ、室内楽と休みなくわき出たのでありました。特に、オペラはそのアリアだけでなく、アンサンブルの見事さは類を見ないのです。「魔笛」「フイガロの結賠」「ドン・ジョバンニ」は彼の代表作です。


 シューベルト (1797 ウイーン 〜 1828 ウイーン)
 彼の両親は田舎の出でありましたが、ウィーンに来て教員養成教育を受け、初等学校を経営していました。その第4子であったシユーベルトは嘗才の頃から音楽の才能を発揮したので、父は近くの教会のオルガニストからバイオリン、ピアノ、声楽、オルガン等を習わせました。 その後、国立神学枚で、一流の教師から音衰教育を受けたのでした。彼はたちまち楽才を発揮し、18才のころから披の作曲したものは、人の心を打って評判となりました。「野ばら」「魔王」等143曲の歌曲は18才の時の作品です。彼はベートーヴェンを神様の様に尊敬し、べ仙トーヴェンを訪ねた時、ペートーヴェンは死の床にあり、被の葬列にたいまつを持って参列したのでした。彼は<歌曲の王>と呼ばれていますが、ピアノ曲、管弦楽曲も多く、ベートーヴェンの亡くなった翌年32才の若さで亡くなりました。彼のピアノ曲<さすらい人幻想曲>も名曲です。

ヴィニアスキー (1835 ルブリン 〜 1880 モスクワ)  ポーランドのヴァイオリニスト、作曲家。 8才で、パリ音楽院に入学。マサールに師事し、才能を発揮し、19世紀の名ヴァイオリニストの一人となり、演奏旅行を始めました。14才で再びパリ音楽院に入学し、作曲を学びました。25才で、ペテルブルグ宮廷のヴァイオリニストに迎えられ、37才で名ピアニスト、ルービンシュタインとアメリカに演奏旅行し、空前の成功をおきめました。その後、ブリュッセル音楽院で教授となりましたが、55才の時、演奏旅行中に心臓病でロシアで客死しました。 彼の作品は、ヴァイオリンの名技を生かした演奏効果に富んだものです。

 グノー (1818 パリ 〜 1893 パリ)  ルイ16世に仕えた名門の出の彼は芸術的環境の中で育ち、パリ音楽院で才能が花開き、ローマ大賞を得、ローマに留学しました。ローマで宗教曲に関心を持ちミサ曲やレクイエムを研究し、作曲しました。また、帰途、ドイツとオーストリアに立ち寄り、シユーマン、メンデルスゾーンの影響を受けました。また、オペラは名歌手ガッレシアの依頻で手がけ、18曲も作曲しました。その中で、彼の名を 不朽にしたのが、「フアウスト」でした。彼は、近代フランス音楽の先駆者で、被あってこそ、後のビヤー、マスネー、フオーレ、デュ ニノヾルク、ドビッシ一等のオペラや近代歌曲が生まれたのであります。 彼が尊敬していたバッハの平均律1番の上にメロディーを於いた「アベ・マリア」はあまりにも有名です。


演奏者
ミヒヤエル・ヴァイマン (violin)    オデッサのストラルスキ音楽院卒業後、モスクワのチヤイコフスキー音楽院にてD.オイストラフに師事。1耶5年パリ・ジャック・ティポー国際コンクールにてデイプロマを取得。77年ポーランド・ヴイニアフスキー国際コンクールにて第2位入賞。以後、チエコスロヴァキア、デンマーク、ドイツ、ハンガリー、ポーランド、ソ連各地でソロ・リサイタルやオーケストラとの協演を行う。    89年息子と妻とイスラエルに移住。以後、アメリカ、メキシコ、アルゼンチン、イタリア、フランス等で演奏活動を行う。現在までにベルリン交響楽臥レニングラード交平楽団など数多くのオーケストラとの協演を行う。91年よりテルアビア大学ルービン音楽院教授。1朔年4月より、愛知県立芸術大学客員教授。

デイーナ・ヨッフヱ・ヴァイマン(piano)
  リガのダルヴイン音楽学校を経て、モスクワのチヤイコフスキー音楽院を卒業。その間、1967年プラハ・国際児童国際コンクールピアノ部門第2位、神年ドイツ・シユーマン国際コンクール第2位、75年ショパン・コンクール第2位入賞。ポTランドの新開、雑誌はショパン・コンクールでの彼女の演奏を絶賛。日本でもテレビで紹介され、数多くのファンを得た。以後、ポーランド、ドイツ、チェコスロバキア、ソ連各地で演奏、日本にも乃年を皮切りに5度来日し、彼女の演奏は「白い薔薇の香り」と賞賛される。89年イスラエルに移住してからは、アメリカ、メキシコ、ベルギー、アルゼンチン、フランス、スイス各地で演奏を行う。これまで、ズービン・メーター指揮のイスラエルフィルハーモニー、ネヴイル・マリナT指揮のNHKN交響楽団をはじめ、各国のオーケストラと協演.91年よりテルアビア大学ルービン音楽院教授。1995年4月より愛知県立芸術大学客員教授。

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